対策として

レストランの化粧室を出ると、そこに床はなかった。


すんでのところでドアの取っ手をつかみ、ぶら下がる。
ここはビルの外。下は、6階ほどの高さがあるようだ。
化粧室のドアは、ゆっくりとぼやけ、ビルの外壁に消えつつある。


なんでこんなことに、と嘆いているばあいじゃない。
あやふやな世界と世界とのあいだでちょっとしたトリックに陥ることは、よくあることだ。
放り出されたこの厳しい現実で、今はとにかく、このドアの取っ手が命綱。
たとえそれが、あやふやな虚構の置き土産であったとしても。


下からビル風が吹き上げてくる。
どうやら、ここはふたつのビルの隙間であるらしい。
ビジッ、ビジッ、と明滅する蛍光灯のように、取っ手の存在があやふやになる。
消えるな。消えるな。と必死の念力のような想像力をふりしぼる。
ドアに両足を突っ張り、尻を突き出すと、うしろの壁にあたった。どうやら隙間は広くない。


うしろのビルの側壁に背中をぴったりつけ、両足は手前の壁に踏ん張る。
こうやっていれば、なんとか落ちずに体勢を維持できるようだ。助かった。
お役御免、と、取っ手もドアも跡形もなく姿を消した。まるで、トリックの種を消すように。
自分は最初からあの化粧室にはおらず、ずっとここにこうしていたかのようだ。


両手で背中のビルをかるくささえながら、じわり、と体を下へすべらせる。
つぎに、足を等間隔に一歩ずつ、後じさりするようにしておろす。
この動作をリズムをつけてゆっくりと行えば、けっこう早く下まで降りられそうだ。


現実はきびしい。
だが、完全なる不可能を押し付けてくるものではない。


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